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弘道館 (2017/3/5)



弘道館は、藩政改革の重要施策のひとつとして開設された、旧水戸藩の藩校です。
藩校当時の敷地面積は約10.5haと全国一の規模でした。
敷地内には、正庁(学校御殿)・至善堂の他に文館・武館・医学館・天文台・鹿島神社・八卦堂・孔子廟などがあり、
馬場・調練場・矢場・砲術場なども整備された、総合的な教育施設でした。
弘道館では藩士とその子弟が学び、学問と武芸の両方が重視され、卒業はなかったそうです。
なお、1868年(明治元年)の水戸藩内部抗争の際、戦火で正門、正庁、至善堂以外はほとんど消失したそうです。
現在、武館跡は水戸市立三の丸小学校、調練場は茨城県三の丸庁舎等、医学館は三の丸市民センター等になっています。
そして、今回は弘道館の正庁、至善堂内部とその周囲の庭を散策してきました。
偕楽園同様、梅が見頃を迎え、なかなかな景色を作っていました。

インデックス


水戸市立三の丸小学校

水戸市立三の丸小学校は、弘道館の武館跡に建てられている小学校で、一風変わった佇まいです。
弘道館同様、白い外塀で囲まれ、入り口は立派な木組みで、とても小学校とは思えない風情です。

 
  <水戸市立三の丸小学校 校門>       <水戸市立三の丸小学校 通用門と校舎>

坂道を登り切った三の丸交差点に見えるのが水戸市立三の丸小学校の正門です。
校門からして小学校とは思えないような佇まいで、看板が無ければ小学校とは分からないと思います。
校門に続く外塀や横手の通用門、校舎もなるほどと思ってしまう造りです。

弘道館 正門(国指定重要文化財)

本瓦葺きの四脚門で、重要文化財になっています。
戦火を逃れた建物の1つで、その柱には内部抗争の折にできた弾痕が残っているそうです。
なお、正門は藩主が来館する際など正式な場合のみ開門し、通常は通用門から出入りしたそうです。
現在も来館者は通用門を使用するそうですが、今回は正門が開かれており、正門からの出入りになっていました。

 
<弘道館 正門>

水戸市立三の丸小学校の通用門を過ぎると正面に大きなイチョウの木とその下に蔵のようなもの(番所)が見えます。
この外塀の角を曲がると正門が見え、その正門右手に通用門があります。今回は、正門から入りました。


<弘道館 正門>

正庁の玄関付近から見た正門です。右手には対試場があります。

 
<正門の表側>         (弾痕)          <正門の裏側>

正門の表側から見て右側の柱(写真で最も手前)には、弾痕があり、それを拡大したのが中央の写真です。
左の写真でも、よく見ると黒いシミのように見えていますが、思った以上に大きな穴です。

弘道館 正庁(国指定重要文化財)

正庁は学校御殿ともいわれ、藩主が臨席して文武の試験が行われた所です。
正庁と十間畳廊下でつながっているのが至善堂で、藩主の御座所(休息所)でした。
それぞれに床や棚が設えられた書院造りです。
屋根は、正庁の玄関左右側面が入母屋造、正庁背面と至善堂は寄棟造となっています。
また、玄関の軒下には、こけら葺きの下屋根が付いています。

 

正庁 正席の間、藩主が臨席をして行われた学問の試験や対試場で行われた武術の試験をご覧になったところです。
その床の間には、弘道館の建学精神が示された弘道館記碑の拓本が飾られています。
床の間の隣には違い棚が配された書院造りになっています。


<雲龍水>

弘道館に備え付けられていた消防ポンプで、安政四年の銘があるとのこと。
至善堂の四の間に置かれていました。


<大日本史>

徳川光圀公の命により開始された歴史書で、神武天皇から後小松天皇までの百代の治世を扱ったもの。
光圀公の死後も水戸藩の事業として続けられ、明治39年に250年かけて完成した。
本紀73巻、列伝170巻、志・表154巻、全397巻226冊(目録5巻)よりなる史書です。
弘道館にはその一部243巻が所蔵されていおり、その一部が展示されていました。

 
<正席の間から見える江南所無>           <至善堂から見た庭園>   .

正席の間の側面にある江南所無の老木。右手は湯殿と便所の外壁です。
至善堂から正門方向を見た庭園の様子です。右手の方に井戸が見えています。

 
<十間畳廊下から見た正庁と至善堂>

正庁と至善堂は十間畳廊下でつながっています。
そこから見た正庁(梅の木越しに入母屋造の屋根が見えます)と至善堂(入側が見えています)です。
至善堂のはずれに見えている黄色い木は、サンシュユの大木です。

弘道館の庭園

弘道館の敷地には、約60種800本の梅が植えられており、偕楽園同様、梅の名所です。
それ以外にも、左近の桜(偕楽園と同じく京都御所より昭和38年に受領)などが植えられています。

 
<弘道館 表門左手の庭園>            <弘道館 正庁右手の井戸>

復元された井戸で、藩校の御台所では、この井戸の水が使われていたそうです。


<弘道館 至善堂右手の庭園>

井戸の横から奥に続く庭園で、この通路の突き当りあたりに臥竜梅があります。

 
<弘道館 至善堂右手の庭園>

通路右手の梅の木々と左手にあるサンシュユの大木です。
梅にはない黄色い花なので、花は小さくてもかなり目を引きます。


<臥竜梅>

根元から傾き、地を這うように横に伸びた梅の木で、その姿から「臥竜梅」と名付けられています。
地を這うように枝を伸ばし、白い花をたくさん咲かせていました。
読み方ですが、「がりょうばい」、「がりゅうばい」の両方の読み方があるようです。
一説では、伊達政宗公が朝鮮より持ち帰ったもので、成長すると地を這うようになることが名前の由来とか。
現在、その木は、国の天然記念物として宮城刑務所内に残されているそうで、国内最大の臥竜梅だそうです。
ちなみに、その大きさは高さ9m、東西17m、南北22mだそうで、樹齢は220年とも360年とも言われています。


<弘道館 正庁正席の間横の庭園>

正庁正席の間横の庭園で、左に見えているのが正庁正席の間側です。
その前の花のついていない梅の木は、江南所無の老木で、逆向きに見た写真がこちらです。
なお、奥の方に見える空き地のような所は、対試場です。


<対試場と正庁(正席の間、二の間)>

対試場の隅の方から見た正庁で、左手が正席の間で、右手が二の間です。
入側に座って対試場の方を見ている方々がいました。藩主も同じように正席の間から見ていたのでしょうか。
なお、対試場の奥、正庁の右手に正門が見えています。









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