四国を巡る旅
3日目インデックス |
金刀比羅宮(ことひらぐう)
金刀比羅宮は、香川県仲多度郡琴平町の象頭山中腹に鎮座する神社です。
主祭神は大物主命で、相殿は崇徳天皇となっており、社格は国幣中社・別表神社です。 こんぴらさんと呼ばれて親しまれており、金毘羅宮、または琴平宮とも書かれることがあります。 全国にある金刀比羅神社、琴平神社あるいは金比羅神社の総本宮でもあります。 海上交通の守り神として信仰されており、漁師、船員など海事関係者の崇敬を集めています。 そのため、境内の絵馬殿には航海の安全を祈願した多くの絵馬が見られます。 金刀比羅宮といえば石段が有名ですが、本宮までが785段、奥社まで行くと1368段です。 <五人百姓> <桜馬場> 今日の最初の訪問先は、宿に近い金刀比羅宮です。そう、これから石段を上るのです。 ガイドさんについて、石段を上り始めました。はじめは足取りも軽く、スイスイ上っていけました。 それが、半分弱の365段上った辺りになると、足に来始めて、足取りが重くなってきました。 そこにあったのが、手前で傘を広げているのが五人百姓で、特別に宮域で飴を売ることを許された店です。 右はその先に伸びる平たんな石畳の参道で、桜馬場と呼ばれています。 距離は150mほどあり、玉垣の内に桜が植えられ、無数の石燈籠が並んでいます。 ここは平たんなので、多少は足を休めることができ、この後もがんばれそうな気がしました。 <旭社(あさひしゃ)> <御前四段坂(ごぜんよだんざか)> 左の写真は、石段の628段にある旭社で、銅瓦葺の二層入母屋造の社殿です。 建立されたのは1837年(天保8年)で、全体に多くの美しい彫刻が施されています。 本宮を参拝した後に参拝するのが習わしとなっているそうです。 そのため、行きはパス。帰りにと思っていたのですが、時間がなくて、帰りもパスしてしまいました。 右の写真は、石段が4段階に分かれた御前四段坂です。ここを上り切ると御本宮があります。 <神楽殿> <御本宮 拝殿> 神楽殿(かぐらでん)は、入母屋造・檜皮葺の社殿で、神木の東側にあり、伶人楽や雅楽を奏します。 御本宮は、本殿のほか、幣殿、拝殿、神饌殿などからなり、神楽殿とは向かい合っています。 右の写真は御本宮 拝殿で、手前に幹の一部が写っているのは、御神木の楠です。 幹周り4.7m、樹高は25mあるそうで、幹に巻かれた紐におみくじが結ばれているようです。 <御本宮 拝殿> 先の写真とは反対方向から撮ったものですが、桧皮葺・大社関棟造りの社殿が良く分かります。 写真の右端の方には、神饌殿につながる北渡殿の一部が見えています。 その上部で、屋根に千木(ちぎ/X字状の組木)が見えているのが本殿と思われます。 <展望台からの眺望> 本宮の北東側は展望台になっていて、讃岐平野が一望できます。 この日は、瀬戸大橋は靄って見えませんでしたが、讃岐富士(飯野山)は良く見えていました。 右の写真は、左の写真の左端に写っている讃岐富士をアップで撮影したものです。 <三穂津姫社(みほつひめしゃ)> <南渡殿(みなみわたどの)> . 三穂津姫社は南渡殿の南端にあり、大物主神の后にあたる高皇産霊神の御女、三穂津姫神が祭られています。 本殿は檜皮葺・王子造、中殿は檜皮葺、拝殿は檜皮葺・大社関棟造となっています。 写真の中央に見えているのが拝殿で、その右手奥に見えているのが本殿です。 その三穂津姫社と御本宮をつないでいるのが南渡殿で、約40mの長さがあります。 <さざれ石> <イチョウの巨樹> . 集合時間が近づいてきたので、急いで戻ることにしました。 その前に、神楽殿の横にある神札授与所に立ち寄り、「幸福の黄色いお守り」を購入しました。 下りる途中、高橋由一館の向にさざれ石が置かれ、それと向かい合うようにイチョウの巨木がありました。 このイチョウ、幹回りは5.28m、樹高は20mもあるそうです。ここには、楠、イチョウと巨木が多いですね。 話が変わりますが、さざれ石は「細石」と書き、細かい石や砂、粘土などが混ざって礫岩となったものです。 学名は石灰質角礫岩で、国内では、ここ以外に出雲大社、鶴岡八幡宮、霧島神宮などに奉られています。 なんとか時間内にバスに戻ることができましたので、次の祖谷のかずら橋に向かいました。 |
祖谷(いや)のかずら橋
三好市西祖谷山村にある「祖谷のかずら橋」は、日本三奇橋の1つとされています。
祖谷のかずら橋は、長さ45m、幅2m、高さ14mあり、国指定重要有形民俗文化財となっています。 重さ5tほどになるシラクチカズラで造られており、3年ごとに架け替えが行われています。 元は冬の厳しい寒さの中で採取された自生のシラクチカズラを編んで造られていました。 最近は、太いシラクチカズラの調達が年々困難になってきており、細い物を撚り合わせているそうです。 大正時代にワイヤーを使った吊り橋に架け替えられましたが、1928年(昭和3年)に復活されました。 といっても、安全のため、芯にワイヤーは使われており、見かけが復活したということです。 古文書によると、1646年(正保3年)の「阿波国図」には7つかずら橋が記録され、 1657年(明暦3年)の、「阿波国海陸度之の帳の写」の祖谷紀行では13のかずら橋の記載があります。 今では西祖谷山村の「祖谷のかずら橋」と東祖谷の「奥祖谷二重かずら橋」の2つを残すのみです。 橋床は「さな木」と呼ばれる横棒のみで、かなり間隔が開いており、下がスカスカに見えます。 この日は雨で滑り易かったので、ヒールの方は渡るのは大変だったと思います。 <大歩危橋より> 国道32号線を吉野川に沿って走り、大歩危小歩危をバスから横目で見ながらの走行でした。 そして、大歩危橋を渡って、西祖谷山山域線に入ります。 上記は、そのとき渡った大歩危橋から見た吉野川の上流方向で、祖谷のかずら橋までは後20分ほどです。 <雨の祖谷のかずら橋> 駐車場について、祖谷のかずら橋を渡るためには、祖谷渓大橋を渡って対岸に行く必要があります。 その橋の上から見えた祖谷のかずら橋が、上記の写真です。かなりの雨の中を傘を差して渡っています。 <祖谷のかずら橋> かずら橋を構成するパーツのアップですが、基本は丸太とシラクチカズラの蔓です。 丸太を固定するのも蔓ですし、橋を上から支えるのも編んで長くした蔓です。 そして、橋床は「さな木」と呼ばれる横棒を、やはり蔓で固定してあるだけで、かなりの隙間があります。 右下の写真を見れば分かりますが、左下の方にワイヤーの固定金具が見えています。 つまり、橋床を支える所など要所にはワイヤーが使われて、安全性を担保しています。 とはいえ、この写真のように、下を見れば14m下の川面がスカスカに見えるわけです。 それに加えて、雨で濡れて滑りやすく、おまけに傘を片手で持たなければなりません。 片手で横に張られた手すり持って、恐る恐る渡る人が多かったのですが、傘をあきらめた人もいました。 私は、このような場所は比較的慣れているので、真ん中をスイスイ渡ってしまいました。 が、一緒に行った家内は、一歩一歩、慎重に歩を進めていましたので、かなり時間がかかっていました。 対岸に着いたとき、多くの人がホッとして安堵の色を浮かべ、良い笑顔をしていました。 <吉野川のラフティング> 皆さんが無事にバスに戻って来たので、今回のバスツアーはほぼ終了。後は帰るだけとなりました。 戻る途中、最後の休憩で立ち寄ったドライブイン。そこからは眼下に流れる吉野川が見えていました。 その時、上流から流れてくるゴムボートが数隻見えました。ラフティングをしているようです。 ちょうど眼下に来た時の写真が右側なのですが、波を被って楽しそうでした。 ここで最後の買い物をして、高松空港へ向かい、そこから羽田に戻りました。 |