四国を巡る旅 インデックス
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高知市・桂浜
徳島空港でバスに乗り換え、徳島自動車道〜高知自動車道を走って、一気に高知へ入りました。
市内に入ると、とさでん交通の路面電車と時折すれ違います。 子供の頃、路面電車は神戸でよく見た光景で、たいへん懐かしかったです。 そんな路面電車をながめていると、バスガイドさんが播磨屋橋の説明を始めました。 あれが播磨屋橋ですと案内された橋の何と小さい事か。イメージとかけ離れていて、ちょっとびっくり。 高知城の横を通って、桂浜の駐車場に到着です。弧状に広がった砂浜には、大きな波が寄せていました。 普通の砂浜なのですが、太平洋に面しているだけに波は荒く、沖合の海の色が濃い暗青色です。 この辺りは、黒潮が近くを流れていて、水深が急に深くなっているために、色濃く見えるのでしょう。 なお、桂浜は波が荒れやすく、引き波も強いため、遊泳禁止だけでなく、波打ち際に近づくのも禁止です。 <桂浜公園 坂本龍馬の銅像> <桂浜と龍王岬(下龍頭岬)> 坂本龍馬の銅像は、台座は8m、龍馬は5.3mという大きさで、着物にブーツという出で立ちです。 この銅像は、龍馬を慕う高知県内の若者たちが募金を集め、昭和3年に完成したものです。 桂浜は、龍頭岬(りゅうづざき)と龍王岬(りゅうおうざき)に挟まれた砂浜です。 右側の写真が桂浜とその先に見える龍王岬(下龍頭岬)です。岬の上には「海津見神社」があります。 <龍王岬にある龍王宮(海津見神社(わたつみじんじゃ)> 龍王岬の先端にある「海津見神社」は、通称「桂浜の竜宮様、竜王宮」として親しまれています。 階段を上った先に鳥居があり、その左手に小さな海津見神社の祠が見えています。 御祭神は大海津見神で、海上安全、海中安全、さらに恋愛成就の神様として信仰されています。 桂浜を後にして、四万十川に向かっているときに見かけた仁淀川の河口です。 下流側には砂州が出来ていたのですが、その周囲が白っぽくなって浅葱色(あさぎいろ)になっていました。 沖合の紺色とは明らかに異なりますが、遠浅によるものか、真水が混ざったことによるものかは分かりません。 右の写真は、海岸近くの道路で目にした風景ですが、岩礁が多く、荒々しい感じの所が多々ありました。 |
四万十川(しまんとがわ)
四万十川は、高知県西部を流れる一級河川で渡川水系の本流です。全長196kmの四国内で最長の川です。
不入山(いらずやま)を源流とし、高知県中西部を逆S字に蛇行し、四万十市で太平洋に注ぎ込みます。 なお、河口付近は「渡川(わたりがわ)」のため、水系名は、前述の通り渡川水系となっています。 河川法上、1928年〜1994年までは渡川が正式名称で、1994年に四万十川に改名されました。 本流に大規模なダムが建設されていないことから「日本最後の清流」とか、 また、柿田川、長良川と共に「日本三大清流の一つ」と呼ばれます。 名水百選や日本の秘境100選にも選ばれていますが、科学的な水質調査ではそれほど良くはない。 どちらかというと、土佐市を流れる仁淀川の方が水質的には良い状態にあります。 四万十川で有名になったものに沈下橋がありますが、本流に22ヶ所、支流も含めると47か所にあります。 欄干の無い鉄筋コンクリート造りで、通常水位より2〜3m上に掛けられています。 大雨等で増水時、水面下に沈下することで流木などが引っ掛かって橋全体が損壊するのを防止しています。 四万十川に着く早々、遊覧船に乗って四万十川を遡り、沈下橋を見に行きました。 通常水位の場合、上の写真のように遊覧船が通過するにも十分な高さがあります。 これが沈下するということは、水位の上昇はこれ以上ということで、相当に増水することを意味します。 沈下橋をくぐる際、ちょうど車が通過していきました。 幅に余裕があるとはいえ、初めてここを通るとなると、相当な覚悟がいりそうです。 私だったら、二の足を踏むかもしれません。 |
2日目(2007/9/15)
下記の写真は抜粋したものです。2日目の詳細に関しては、こちらをご参照ください。
足摺岬(あしずりみさき)
足摺岬は、高知県南西部土佐清水市に属し、太平洋(フィリピン海)に突き出る足摺半島の南東端です。 黒潮の打ち寄せる断崖は80mほどの高さがあり、一帯は足摺宇和海国立公園に指定されています。 周囲には、ツバキ、ウバメガシ、ビロウといったの亜熱帯植物が密生しています。 近くには海蝕洞である白山洞門(はくさんどうもん)や金剛福寺(第38番札所)があります。 ここには、足摺半島西岸、中浜の漁師で、幕末の政局に大きな役割を果たしたジョン万次郎の銅像があります。 「ジョン万次郎資料館」には、万次郎の遺品や当時の資料などが展示されています。 足摺岬の突端には、白亜の大型灯台「足摺岬灯台」があり、「日本の灯台50選」にも選ばれています。 1914年(大正3年)に設置、初点灯した当時は、八角形の白亜の塔型で、第4等フレネル式レンズでした。 1960年(昭和35年)7月29日に、現在のデザインの灯台に改築されました。 <夜明けの足摺岬 2007/9/15 6:06> 朝起きて、朝食前に散歩がてら足摺岬展望台へ朝日が昇るを見に行きました。 着いたのは日が昇る頃でしたが、水平線には雲が張り付いていて、ボーっと明るいだけです。 しばらくすると雲の切れ間から太陽が顔を出し、灯台や崖がスポットライトを浴びたように浮かび上がりました。 <白山洞門> ホテルに戻る途中に、白山洞門に下りる所があったので、寄って行くことにしました。 下りていくと白山洞門が見え、その中に荒々しく波が打ち寄せ、白く砕けていました。 白山洞門は、高さは16m、幅は17mあり、高知県の天然記念物に指定されています。 <足摺岬灯台> 足摺岬灯台はロケット型の白亜の灯台で、岬にニョキっと立つ姿は良く目立ちます。 もちろん、周りには何もないので、海の方から見てもよく目立つことでしょう。 金剛福寺(こんごうふくじ)
金剛福寺は、山号が蹉だ山(さださん)で、蹉だ山 補陀洛院金剛福寺(ふだらくいんこんごうふくじ)が正式名です。
真言宗豊山派の寺院で、本尊は三面千手観世音菩薩、開基は弘法大師。822年(弘仁13年)の創建です。 国立公園の足摺岬を見下ろす丘の中腹にあり、境内は広大で、12万uを誇ります。 弘法大師が岬の突端に広がる大海原に、観世音菩薩の理想の聖地・補陀落の世界を感得し、 ときの嵯峨天皇に奏上、勅願により伽藍を建立、勅額「補陀洛東門」を受け、開創したと伝えられます。 第38番札所ですが、前の第37番札所からは80km以上あり、札所間では最長になるとのこと。 歩けば30時間以上、3泊4日はかかる距離で、遍路の旅では苦難の道となっています。 ※ 蹉だ山の「だ」は、足偏に它です。 <金剛福寺仁王門> 県道に面して建っている金剛福寺の仁王門です。「補陀落東門」と書かれた扁額が正面に見えます。 <金剛福寺権現堂> 権現堂は、金剛福寺の鎮守であり、朱塗りの真新しい柱などが印象的でした。 ここで、足摺岬ともお別れし、次の目的地である竜串海岸に向かいます。といっても、30分ほどですが。 |
竜串海岸(たつくしかいがん)
高知県西部の足摺岬近辺にある奇勝で、足摺宇和海国立公園の一部になります。
竜串の一帯は、砂岩と泥岩が層状に重なっており、その層が波食、風食を受けて形成された地形です。 なかでも一直線に伸びて、丸みを帯びた節理が見られる大竹小竹は、ここの代表的な地形です。 また、波食、風食によって、岩肌に無数の襞(ひだ)と甌穴(おうけつ)を形成したものもある。 <竜串層の岩肌にできた甌穴群> <竜串層にできた柱状の節理> 上段は、波食、風食によって、岩肌に無数の襞と甌穴が出来たものです。 柔らかい所が浸食されて、硬い部分のみが残った結果なのでしょうか。自然の造形の美ですね。 中下段は、丸みを帯びた岩が一直線に並び、節理が竹の節を思わせるものです。 節理の部分が海面上に出ているもの、ほとんど水面下に沈んでいるものがあります。 ここも太平洋の波が直接押し寄せる所なので、波が荒く、この波がこの景色を作った一因なのでしょう。 なお、中段の写真で、奥に見える赤い色の変わった形の建物は、竜串海中公園の足摺海底館です。 あまり時間が取れなかったので、奥までは行くことができず、次の目的地に向かいました。 |
内子町のうだつ
内子町は、四国遍路道や金比羅街道などが放射状に伸びる交通の要衝で、宿場町として賑わいました。
和紙や木蝋の生産地として江戸時代中期〜大正時代にかけて繁栄しましたが、 なかでも江戸時代末期〜明治時代には、良質の白蝋を海外に輸出するなど地場産業が繁栄しました。 町並みは、蝋商の芳我家を中心に、白や浅黄色の漆喰塗りの建物が、約600mにわたって続きます。 そして、これらの建物には「うだつ」が設えられていたり、海鼠壁(なまこかべ)を使っていたり、 入母屋造の懸魚(げぎょ)に鏝絵(こてえ)を施したりと、豪商の家はとても凝っています。 建物に使われた鏝絵以外に、鏝絵を展示した店舗もあり、鏝だけで造ったとは思えない見事さです。 蝋商の本芳我家やその分家の上芳我家住宅は国指定重要文化財となっています。 <本芳我家住宅> 1889年(明治22年)に建てられた豪商 本芳我家の屋敷です。 亀甲の海鼠壁や鶴・亀・波などの漆喰彫刻(漆喰彫刻)、鏝絵の懸魚や鬼瓦などが見られます。 なお、懸魚の上に見える鬼瓦や隅鬼瓦ですが、先が跳ね上がった形状は、四国独特の形状だそうです。 <上芳我家住宅> 本芳我家の分家である上芳賀家の住宅です。 こちらもなかなか立派な住宅で、海鼠壁や漆喰彫刻、鬼瓦などが見られます。 限られて時間でしたが、内子町の町並みを堪能できましたので、満足して次の目的地に向かいました。 |
道後温泉
道後温泉は、愛媛県松山市に湧出する温泉で、日本三古湯の一つと言われています。
万葉集巻一にも出てくるように、その存在は古代から知られていたようです。 夏目漱石の小説『坊つちやん』にも描かれ、愛媛県を代表する観光地となっています。 道後温泉は、地熱由来の非火山型の単純温泉で、42〜51℃の源泉を混合して利用しています。 道後温泉街は、中央にある道後温泉本館を中心とした温泉街で、L字型に商店街が並んでいます。 その商店街の外れに市内電車の道後温泉駅があり、坊ちゃん列車が止まっていることがあります。 また、駅前には放生園という小公園があり、坊っちゃんカラクリ時計が置かれています。 1994年(平成6年)に、本館建設100年周年記念事業の一環として作られたものです。 8時〜22時まで、1時間毎に時計がせり上がって、坊ちゃんのキャラクターたちが登場します。 <坊っちゃんカラクリ時計> <市内電車の道後温泉駅> . 道後温泉の駐車場に到着後、ガイドさんにつれられて道後温泉本館へ行きます。 その途中で見られたのが坊っちゃんカラクリ時計と市内電車の道後温泉駅です。 道後温泉本館の前で一通り説明があり、集合時間までは自由行動となりました。 <坊っちゃんカラクリ時計の演出> 解散後、17時が近づいていたので、最初に向かったのは坊っちゃんカラクリ時計です。 着いたのは数分前(左の写真)で、人が徐々に集まり始めていました。17時になると、屋根がせり上がり始めました。 その後、時計が反転して、裏からマドンナが現れ、次々と仕掛けが開き最終形態(右の写真)になります。 <道後温泉本館> 道後温泉本館の正面玄関は、いろいろと紹介されているのでお馴染みでしょうね。 この日も浴衣姿の人もいて、多くの人が出入りしていました。が、我々は時間がないので入れません。 右側の写真は、最上部にある宝形造(ほうぎょうづくり)の振鷺閣(しんろかく)で、白鷺が乗っています。 逆光で見にくいのですが、窓には赤いガラス(当時はギヤマンと呼んだ)が嵌め込まれています。 <坊っちゃん列車> 市内電車の道後温泉駅の横に、行きにはなかった坊っちゃん列車が止まっていました。 現在、坊ちゃん列車は、明治21年製仕様と明治41年仕様の2両が運航されています。 写真のものは煙突が円筒形で、運転席窓が楕円形の明治21年製仕様の坊ちゃん列車です。 復元列車はディーゼルエンジン搭載なので、煙に見立てた蒸気を出すようになっているそうです。 |
3日目(2007/9/16)
下記の写真は抜粋したものです。3日目の詳細に関しては、こちらをご参照ください。
金刀比羅宮(ことひらぐう)
金刀比羅宮は、香川県仲多度郡琴平町の象頭山中腹に鎮座する神社です。
主祭神は大物主命で、相殿は崇徳天皇となっており、社格は国幣中社・別表神社です。 こんぴらさんと呼ばれて親しまれており、金毘羅宮、または琴平宮とも書かれることがあります。 全国にある金刀比羅神社、琴平神社あるいは金比羅神社の総本宮でもあります。 海上交通の守り神として信仰されており、漁師、船員など海事関係者の崇敬を集めています。 そのため、境内の絵馬殿には航海の安全を祈願した多くの絵馬が見られます。 金刀比羅宮といえば石段が有名ですが、本宮までが785段、奥社まで行くと1368段です。 <五人百姓> <御前四段坂> 今日の最初の訪問先は、宿に近い金刀比羅宮です。そう、これから石段を上るのです。 はじめは足取りも軽くスイスイ上っていけましたが、365段辺りになると足取りが重くなってきました。 そこにあったのが、手前で傘を広げている五人百姓で、その先には平たんな石畳の桜馬場が見えています。 右の写真は、石段が4段階に分かれた御前四段坂です。ここを上り切ると御本宮があります。 <御本宮 拝殿> 御本宮は、本殿のほか、幣殿、拝殿、神饌殿などからなり、神楽殿とは向かい合っています。 御本宮 拝殿は、桧皮葺・大社関棟造りの社殿です。 右端上部に本殿の屋根が、下部には神饌殿につながる北渡殿の一部が見えています。 <展望台からの眺望> 本宮の北東側は展望台になっていて、讃岐平野が一望できます。 この日は、瀬戸大橋は靄って見えませんでしたが、左端の讃岐富士(飯野山)は良く見えていました。 <三穂津姫社(みほつひめしゃ)> <南渡殿(みなみわたどの)> . 右の写真は三穂津姫社で、大物主神の后にあたる高皇産霊神の御女、三穂津姫神が祭られています。 左の写真は、三穂津姫社と御本宮をつないでいる南渡殿で、約40mの長さがあります。 なんとか時間内にバスに戻ることができましたので、次の祖谷のかずら橋に向かいました。 |
祖谷(いや)のかずら橋
三好市西祖谷山村にある「祖谷のかずら橋」は、日本三奇橋の1つとされています。
祖谷のかずら橋は、長さ45m、幅2m、高さ14mあり、国指定重要有形民俗文化財となっています。 重さ5tほどになるシラクチカズラで造られており、3年ごとに架け替えが行われています。 元は冬の厳しい寒さの中で採取された自生のシラクチカズラを編んで造られていました。 最近は、太いシラクチカズラの調達が年々困難になってきており、細い物を撚り合わせているそうです。 大正時代にワイヤーを使った吊り橋に架け替えられましたが、1928年(昭和3年)に復活されました。 といっても、安全のため、芯にワイヤーは使われており、見かけが復活したということです。 古文書によると、1646年(正保3年)の「阿波国図」には7つかずら橋が記録され、 1657年(明暦3年)の、「阿波国海陸度之の帳の写」の祖谷紀行では13のかずら橋の記載があります。 今では西祖谷山村の「祖谷のかずら橋」と東祖谷の「奥祖谷二重かずら橋」の2つを残すのみです。 橋床は「さな木」と呼ばれる横棒のみで、かなり間隔が開いており、下がスカスカに見えます。 この日は雨で滑り易かったので、ヒールの方は渡るのが大変だったと思います。 <雨の祖谷のかずら橋> 駐車場について、祖谷のかずら橋を渡るためには、祖谷渓大橋を渡って対岸に行く必要があります。 その橋の上から見えた祖谷のかずら橋が、上記の写真です。かなりの雨の中を傘を差して渡っています。 <祖谷のかずら橋> かずら橋は、基本は丸太とシラクチカズラの蔓で造られていました。 丸太を固定するのも蔓ですし、橋を上から支えるのも編んで長くした蔓でした。 安全性の点から、最近は要所にワイヤーが目立たないように使用されているそうです。 そして、橋床は「さな木」と呼ばれる横棒を蔓で固定しただけで、写真のように隙間があります。 渡るときには、この写真のように14m下の川面がスカスカに見え、かなりスリリングです。 <吉野川のラフティング> 皆さんが無事にバスに戻って来たので、今回のバスツアーはほぼ終了。後は帰るだけとなりました。 戻る途中、最後の休憩で立ち寄ったドライブイン。そこからは眼下に流れる吉野川が見えていました。 その時、上流から流れてくるゴムボートが数隻見えました。ラフティングをしているようです。 ちょうど眼下に来た時の写真が右側なのですが、波を被って楽しそうでした。 ここで最後の買い物をして、高松空港へ向かい、そこから羽田に戻りました。 |
四国で見かけた野草
今回、四国をぐるりと周ってきたわけですが、その際、海岸近くで見かけた野草です。
属名順に配置したのですが、右側ほど派手な色合いの花になってしまいました。 これらの内、サフランモドキとアメリカデイゴは帰化植物で、アメリカデイゴは植栽されたものかも。 サフランモドキは竜串海岸で見たのですが、暖地では逸出して野生化しているそうです。 <ニオウヤブマオ> <ハマアザミ> <ノカンゾウ> . <ハマユウ> <サフランモドキ> <アメリカデイゴ>
これらの植物の詳細に関しては、こちらに紹介させていただきました。興味のある方はご参照ください。
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