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四国を巡る旅 2日目(2007/9/15)



翌日、早朝から足摺岬の方に散策に出かけました。着いた頃に日出のはずでした。
しかし、水平線には雲が張り付き、一部が明るくなっているだけです。
しばらく待っていると、雲の一部が一段と明るくなり、太陽が顔を出しそうになってきました。
そして、雲の切れ間から朝の光が射してきて、足摺岬灯台やその下の崖を朱に染めてくれました。
その朝の光に押されるように、ホテルに戻ることにしました。
その途中に、白山洞門に下りる所があったので、白山洞門に下りていくことにしました。
太平洋に直接面しているので波は荒々しく、この波が洞門を作ったことに納得がいきます。
さて、ホテルに戻って朝食を取り、再度、足摺岬灯台へ向かいました。
灯台をぐるりと周ってから、近くの金剛福寺(こんごうふくじ)を訪れました。
ここで、足摺岬を後にして、少し離れた所にある竜串海岸へ移動しました。
ここも、荒波が岩を削ってできた所で、甌穴のある岩や竹を横倒しにしたような岩が並んでいます。
これらの奇岩を観賞した後、愛媛県の内子町に向かいました。これで3県目になります。
内子町で豪商の凝った住居やうだつの町並みを散策後、次の道後温泉へ向かいました。
道後温泉では、ガイドさんに道後温泉本館前まで連れて行ってもらい、そこで自由行動となりました。
坊っちゃんカラクリ時計や坊っちゃん列車を見学し、商店街をウロウロしながら戻りました。
ここからは、今日の宿泊地である琴平まで、松山自動車道をひた走ります。バスの中は爆睡の嵐。
2時間程で宿に着いたら、夕飯もそこそこに、多くの人が床に就いたようです。



四国を巡る旅
2日目インデックス


足摺岬(あしずりみさき)

足摺岬は、高知県南西部土佐清水市に属し、太平洋(フィリピン海)に突き出る足摺半島の南東端です。
黒潮の打ち寄せる断崖は80mほどの高さがあり、一帯は足摺宇和海国立公園に指定されています。
周囲には、ツバキ、ウバメガシ、ビロウといったの亜熱帯植物が密生しています。
近くには海蝕洞である白山洞門(はくさんどうもん)や金剛福寺(第38番札所)があります。

ここには、足摺半島西岸、中浜の漁師で、幕末の政局に大きな役割を果たしたジョン万次郎の銅像があります。
「ジョン万次郎資料館」には、万次郎の遺品や当時の資料などが展示されています。

足摺岬の突端には、白亜の大型灯台「足摺岬灯台」があり、「日本の灯台50選」にも選ばれています。
1914年(大正3年)に設置、初点灯した当時は、八角形の白亜の塔型で、第4等フレネル式レンズでした。
1960年(昭和35年)7月29日に、現在のデザインの灯台に改築されました。


<夜明け前の足摺岬 2007/9/15 5:54>
朝起きて、朝食前に散歩がてら足摺岬展望台へ朝日が昇るを見に行きました。
着いたのは日が昇る頃でしたが、水平線には雲が張り付いていて、ボーっと明るいだけです。
上の写真は、そのボーっとした光を受けた足摺岬灯台で、ペタっとしてメリハリがあまりありません。

 
<足摺岬の夜明け 2007/9/15 6:01>
しばらくして、太陽の高度が上がり、雲の切れ間が明るくなってきました。
その雲の切れ間から日が射し込んできたのが、上記の写真(右はそのアップ)です。


<夜明けの足摺岬 2007/9/15 6:06>
雲の切れ間から朝日が射し込んで、灯台や崖がスポットライトを浴びたように浮かび上がりました。
朝日が射す前の写真と比較すると、朝が来た〜〜って思えるのではないでしょうか。

 
<ジョン万次郎の銅像>              <空海?の銅像>  .
ジョン万次郎の銅像やその背後の山にも朝日が当っていました。
時間が経ってさらに太陽の高度が高くなったため、オレンジの色味は薄れたようです。
右は、県道27号線をホテルに戻っているとき、あしずり双葉さんの対面に置かれていた銅像です。
場所から推察すると空海の銅像ではないかと思うのですが、説明を見落としたようで、確証はありません。
日出から10数分しか経っていませんが、日が当ってもオレンジ味はすっかりなくなってしまいました。

 
<白山洞門>

ホテルに戻る途中に、白山洞門に下りる所があったので、寄って行くことにしました。
下りていくと白山洞門が見えてきました。太平洋に面しているので、かなり波は荒く、白く砕けていました。
この辺りは、花崗岩で形成された岩盤で、波の浸食でこのような大きな洞門となったようです。
この辺りには、同じような海蝕洞が多くあるそうですが、この白山洞門が最大規模となるそうです。
高さは16m、幅は17mあり、1953年(昭和28年)に高知県の天然記念物に指定されています。

 
<白山洞門横の海岸>
白山洞門の遊歩道を進んでいくと、洞門脇にはこのような岩礁だらけの海岸があります。
この辺りで見られる海蝕洞や海食崖を作り上げたのが、この荒波だと納得できるほど荒かったです。

 
<白山洞門横の海岸>
ホテルに戻って朝食を取り、再度、足摺岬展望台へ移動。
左の写真は、展望台からみたもので、右手に金剛福寺の多宝塔が、左手に足摺グランドレストが見えます。
このあと、足摺岬灯台の方へ移動したのですが、右は足摺岬展望台を撮った写真です。
展望台からは下の方は見えませんでしたが、ここから見ると断崖絶壁の上にある事が良く分かりますね。

 
<足摺岬灯台>
足摺岬灯台はロケット型の白亜の灯台で、岬にニョキっと立つ姿は良く目立ちます。
もちろん、周りには何もないので、海の方から見てもよく目立つことでしょう。

 
<足摺岬灯台より>
足摺岬灯台の遊歩道からは眼下を望める所があり、岩礁に砕ける波の迫力はなかなかです。

 
<逆光の足摺岬灯台>
早朝の時間帯では、太陽の高度が低いので、撮影方向によっては、もろに逆光となります。
足摺岬灯台の標識を入れて撮ろうとするとコントラストが強すぎて、黒つぶれしてしまいます。
上の写真は、何とか字が読めるように後で補正したものですが、空はかなり白飛びしてしまいました。
右は太平洋を撮ったものですが、海も光りの帯ができ、真夏のようなイメージになってしまいました。

金剛福寺(こんごうふくじ)

金剛福寺は、山号が蹉だ山(さださん)で、蹉だ山 補陀洛院金剛福寺(ふだらくいんこんごうふくじ)が正式名です。
真言宗豊山派の寺院で、本尊は三面千手観世音菩薩、開基は弘法大師。822年(弘仁13年)の創建です。
国立公園の足摺岬を見下ろす丘の中腹にあり、境内は広大で、12万uを誇ります。
弘法大師が岬の突端に広がる大海原に、観世音菩薩の理想の聖地・補陀落の世界を感得し、
ときの嵯峨天皇に奏上、勅願により伽藍を建立、勅額「補陀洛東門」を受け、開創したと伝えられます。
第38番札所ですが、前の第37番札所からは80km以上あり、札所間では最長になるとのこと。
歩けば30時間以上、3泊4日はかかる距離で、遍路の旅では苦難の道となっています。
※ 蹉だ山の「だ」は、足偏に它です。

 
<金剛福寺仁王門>              <金剛福寺池と鐘楼堂>
左は、県道に面した金剛福寺の仁王門です。「補陀落東門」と書かれた扁額が正面に見えます。
右は、境内の池越しに見えている鐘楼堂です。2階の開いた所から橦木(しゅもく)が飛び出しています。
左手に見える緑色の像は、おそらく、空海(弘法大師)の像だと思います。
※ 橦木も撞木も「しゅもく」と読み、鐘を叩くものですが、橦木は真っ直ぐな棒状、撞木はT字型とされます。
梵鐘のような大きな鐘は、真っ直ぐな棒を吊るして引き綱を付け、勢いを付けて叩く必要があるので橦木です。
一方、小さな鐘を叩くハンマーのようなT字形をしたものは、撞木であっているようです。
話は変わりますが、眼が左右に飛び出したシュモクザメはT字型なので、和名は撞木に由来します。

 
<金剛福寺愛染堂>              <金剛福寺大師堂>
愛染堂には愛染明王坐像が、大師堂には空海(弘法大師)像が祀られています。

 
<金剛福寺権現堂>
権現堂は、金剛福寺の鎮守であり、朱塗りの真新しい柱などが印象的でした。

ここで、足摺岬ともお別れし、次の目的地である竜串海岸に向かいます。といっても、30分ほどですが。

竜串海岸(たつくしかいがん)

高知県西部の足摺岬近辺にある奇勝で、足摺宇和海国立公園の一部になります。
竜串の一帯は、砂岩と泥岩が層状に重なっており、その層が波食、風食を受けて形成された地形です。
なかでも一直線に伸びて、丸みを帯びた節理が見られる大竹小竹は、ここの代表的な地形です。
また、波食、風食によって、岩肌に無数の襞(ひだ)と甌穴(おうけつ)を形成したものもあります。

 
<アメリカデイゴの花>
竜串海岸で出迎えてくれたのは、真っ赤な花を付けたアメリカデイゴでした。
この花を見て、最初に思い浮かんだのはデイゴでしたが、花の付き方が違うようでした。
帰った後で調べてみると、同じデイゴ属のアメリカデイゴと分かりました。

 

目的の場所まで、ガイドさんに連れられて海岸沿いの岩場を進みます。
この辺りでも、複雑に侵食を受けた砂岩などが所々に見られました。

 
<竜串層の岩肌にできた甌穴群>
 
<竜串層にできた柱状の節理>
 
<竜串層にできた柱状の節理>
上段は、波食、風食によって、岩肌に無数の襞と甌穴が出来たものです。
柔らかい所が浸食されて、硬い部分のみが残った結果なのでしょうか。自然の造形の美ですね。
中下段は、丸みを帯びた岩が一直線に並び、節理が竹の節を思わせるものです。
節理の部分が海面上に出ているもの、ほとんど水面下に沈んでいるものがあります。
ここも太平洋の波が直接押し寄せる所なので、波が荒く、この波がこの景色を作った一因なのでしょう。
中段の写真で、対岸に白い棒状の物に赤い輪が付いたようのものがありますが、足摺海底館です。
海中に設けられた窓から、海の中を泳ぐ魚や珊瑚礁を直接見ることができる施設です。

あまり時間が取れなかったので、奥までは行くことができず、次の目的地に向かいました。

内子町のうだつ

内子町は、四国遍路道や金比羅街道などが放射状に伸びる交通の要衝で、宿場町として賑わいました。
和紙や木蝋の生産地として江戸時代中期〜大正時代にかけて繁栄しましたが、
なかでも江戸時代末期〜明治時代には、良質の白蝋を海外に輸出するなど地場産業が繁栄しました。
町並みは、蝋商の芳我家を中心に、白や浅黄色の漆喰塗りの建物が、約600mにわたって続きます。
そして、これらの建物には「うだつ」が設えられていたり、海鼠壁(なまこかべ)を使っていたり、
入母屋造の懸魚(げぎょ)に鏝絵(こてえ)を施したりと、豪商の家はとても凝っています。
建物に使われた鏝絵以外に、鏝絵を展示した店舗もあり、鏝だけで造ったとは思えない見事さです。
蝋商の本芳我家やその分家の上芳我家住宅は国指定重要文化財となっています。

 
<本芳我家住宅>

      <本芳我家 鏝絵の懸魚>              <本芳我家 土蔵>
1889年(明治22年)に建てられた豪商 本芳我家の屋敷です。
亀甲の海鼠壁や鶴・亀・波などの漆喰彫刻(漆喰彫刻)、鏝絵の懸魚や鬼瓦などが見られます。
同じ海鼠壁でも、土蔵の方は一般的な格子状の海鼠壁で、鏝絵は当時の商標「旭鶴」です。
また、懸魚の上に見える鬼瓦や隅鬼瓦ですが、先が跳ね上がった形状は、四国独特の形状だそうです。


<上芳我家住宅>
本芳我家の分家である上芳賀家の住宅です。
こちらもなかなか立派な住宅で、海鼠壁や漆喰彫刻、鬼瓦などが見られます。

 
<うだつ いろいろ>
内子町の町並みでは、うだつを上げている住居が多くみられます。
同じうだつと言っても、シンプルなものもあれば、凝ったものもあるようです。

 

内子町で見かけた店舗の雨戸?です。一般的な横にスライドする引き戸ではないようです。
左の写真のように下部の戸は上にスライドさせ、上部の戸と共に上に跳ね上げる構造のようです。
戸袋が不要な分、間口が広く取れ、開け閉めも短時間で行えそうですね。
また、雨戸?の下の縁側も、手前を上に持ち上げて、折りたたんで収納できる構造のようです。

 

白や浅黄色の漆喰塗りの建物が並んでいる内子町の町並みの一部です。
その町並みの外れの方に、立派な長い土塀も見られました。これ、内子中学校の外壁です。

 


鏝絵や漆喰彫刻を展示している店舗?があり、中を覗いてみました。
展示された鏝絵などの中に、本芳我家の懸魚の写真がありましたので、ここで制作されたのでしょう。
この中で最も目を引いたのが、白い漆喰で作られた龍です。丸い柱に巻き付くように作られています。
それが立体的で、うろこの1つ1つまでもが再現されています。鏝1つで作る技量には驚かされます。

限られた時間でしたが、内子町の町並みを堪能できましたので、満足して次の目的地に向かいました。

道後温泉

道後温泉は、愛媛県松山市に湧出する温泉で、日本三古湯の一つと言われています。
万葉集巻一にも出てくるように、その存在は古代から知られていたようです。
夏目漱石の小説『坊つちやん』にも描かれ、愛媛県を代表する観光地となっています。

道後温泉は、地熱由来の非火山型の単純温泉で、42〜51℃の源泉を混合して利用しています。
道後温泉街は、中央にある道後温泉本館を中心とした温泉街で、L字型に商店街が並んでいます。
その商店街の外れに市内電車の道後温泉駅があり、坊ちゃん列車が止まっていることがあります。
また、駅前には放生園という小公園があり、坊っちゃんカラクリ時計が置かれています。
1994年(平成6年)に、本館建設100年周年記念事業の一環として作られたものです。
8時〜22時まで、1時間毎に時計がせり上がって、坊ちゃんのキャラクターたちが登場します。

 
<伊予灘>                   <松山城>
内子町を後にして松山自動車道に乗り、30分ほどで伊予市の近づき、伊予灘が良く見えました。
松山自動車道を降り、松山市内に入ったとき、遠くに松山城が見えていました。

 
<坊っちゃんカラクリ時計>          <市内電車の道後温泉駅> .
そして、間もなくして道後温泉の駐車場に到着。ガイドさんについて行きます。
その途中で見られたのが坊っちゃんカラクリ時計と市内電車の道後温泉駅です。
道後温泉本館の前で一通り説明があり、集合時間までは自由行動となりました。



<坊っちゃんカラクリ時計の演出>
解散後、17時が近づいていたので、最初に向かったのは坊っちゃんカラクリ時計です。
着いたのは数分前で、人が徐々に集まり始めていました。17時になると、屋根がせり上がり始めました。
その後、時計が反転して、裏からマドンナが現れ、左右が開いて赤シャツ、狸などの登場人物が現れました。
さらに全体がせり上がっていって、下から温泉に入る人たちが現れます。この中に夏目漱石もいるそうです。
そして、その上の障子が反転して、坊ちゃんと清?が現れ、人力車や山嵐?などが現れて、最終形態になります。
下段中央の写真が最終形態で、この後、その右の写真のように逆の順で退場して、元の形になります。

 
 
<道後温泉本館>
道後温泉本館の正面玄関は、いろいろと紹介されているのでお馴染みでしょうね。
この日も浴衣姿の人もいて、多くの人が出入りしていました。が、我々は時間がないので入れません。
横に周ると簾が下がっていて、入浴後の休憩室になっているようです。
下段右側の写真は、最上部にある宝形造(ほうぎょうづくり)の振鷺閣(しんろかく)で、白鷺が乗っています。
これは傷を負った白鷺が、この温泉で完治し、人々がそれを知って利用するようになった故事に由来するそうです。
逆光で見にくいのですが、この振鷺閣の窓には、赤いガラス(当時はギヤマンと呼んだ)が嵌め込まれています。
そして、1日3回(6時、12時、18時)、中に置かれた太鼓が、時太鼓として打ち鳴らされます。

 
<坊っちゃん列車>
坊っちゃん列車は、軽便鉄道時代の伊予鉄道に在籍した蒸気機関車と牽引していた列車の事です。
小説「坊つちやん」の中で主人公が乗ったことで、坊っちゃん列車と呼ばれるようになったそうです。
最大で18両が運航されていたそうですが、電化に伴い姿を消し、鉄道記念物として展示されています。
その後、地元からの要望で、現在の坊ちゃん列車が2001年10月12日に運航が開始しました。
ディーゼルエンジンを搭載して復元され、煙に見立てた蒸気を出すことで、当時を思い起こさせます。
現在、坊ちゃん列車は、明治21年製仕様と明治41年仕様の2両が運航されています。
写真のものは煙突が円筒形で、運転席窓が楕円形の明治21年製仕様の坊ちゃん列車です。


<市内電車 路面電車>
道後温泉を後にして、今日の宿泊地である琴平へ向かう途中、市内で見かけた路面電車です。
坊ちゃん列車と同じ市内電車なのですが、普通の路面電車で、1954年製モハ50形電車です。









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