首里城
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2日目は、首里城の見学です。奉神門(ほうしんもん)の御開門(うけーじょー)は朝しか見られないので急ぎます。
バスの駐車場から守礼門(しゅれいもん)を通り、歓会門(かんかいもん)、瑞泉門(ずいせんもん)と続きます。 瑞泉門を抜けると内郭で、漏刻門(ろうこくもん)、広福門(こうふくもん)を抜けると下之御庭(しちゃぬうなー)です。 ここで、御開門が行われるのを待つことになります。時刻が決まっているので、間に合うように急ぎます。 守礼門(しゅれいもん)
守礼門は、日本城郭でいう首里城の大手門に該当し、4本の柱と二重の屋根を持ち、赤い本瓦を用いています。
第二尚氏王朝の時代、中国から冊封使が来たときは、国王以下の高官らが守礼門まで出迎えに出たと言われています。 戦争で焼失しましたが、1958年に再建され、1972年には沖縄県指定有形文化財となりました。 守礼(しゅれい)は「礼節を守る」という意味で、門の扁額(へんがく)には「守禮之邦(しゅれいのくに)」と書かれています。 首里城は石垣と城門が多いのですが、その中でも代表格の門で、中国の牌楼(ぱいろう)という形式で建立されています。 古くは「首里門(しゅりもん)」といわれていましたが、その愛称は「上の綾門(うぃーぬあいじょう)」だったそうです。 バスを降りて、最初に見えてくるのが守礼門です。首里城とくれば、必ず出てくるものですね。 上段は正面から見たもので、下段は裏側から見たものです。 守礼門の横に倍くらいの高さがあるシュロの木が、1本だけドンと立っていました。 |
園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)
園比屋武御嶽石門は、その背後にある森「園比屋武御嶽」の礼拝所になるそうで、琉球王国の聖地でした。
1957年に復元され、さらにその後に修復作業が行われて、1972年に国の重要文化財に再指定されました。 そして、2000年11月に「琉球王国のグスク及び関連遺産群」としてユネスコの世界遺に登録されました。 守礼門を過ぎて、しばらく進むと左手に見えるのが、園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)です。 守礼門のカラフルさとは異なり、モノトーンの質素な造りになっています。 |
瑞泉門(ずいせんもん)
歓会門(かんかいもん)を通り、しばらく進むと右手に瑞泉門(ずいせんもん)が見えてきます。 石段を上がり、この瑞泉門を抜けるといよいよ内郭に入ります。 瑞泉門は石造のアーチを設けない楼門形式の門です。 瑞泉門の門前には「龍樋(りゅうひ)」という泉があり、それが名前の由来です。 また、俗に「樋川御門(ふぃじゃーうじょう)」と呼ばれていますが、それもこの泉に由来します。 瑞泉門の石段の途中、右手の階段下に龍の口から水が湧き出ている龍樋(りゅうひ)があります。 この龍の彫刻は、1523年に中国からもたらされた当時のままのものだそうです。 龍碑の水は王宮の飲み水として使われ、中国からの使者「冊封使(さっぽうし)」にも提供されたそうです。 その冊封使が、龍樋の水の清らかさを称賛した書を刻んだものが冊封七碑(さっぽうしちひ)です。 瑞泉門の手前側に見られるものがそうですが、戦争で破壊されたものを1996年に復元したものです。 瑞泉門の手前には1対のシーサーが置かれています。 沖縄の方言で獅子をシーサーといいますが、魔除け、守り神だけではなく、福を呼び込む縁起物でもあります。 一般的に口の開いたシーサーが向かって右側、口を閉じたシーサーが左側に設置されることが多いそうです。 この瑞泉門のシーサーは、向かって左側が写真のように口を開け、右側は口を閉じているようです。 シーサーも、狛犬も、起源は古代オリエントのライオンといわれていますので、よく似ていますね。 狛犬は、朝鮮を経由して伝えられたことで「高麗(こま)犬」と呼ばれるようになったそうです。 始めは、向かって左に獅子、右に狛犬とされていたものが、現在は区別せずに両方とも狛犬と呼ばれます。 一方、シーサーは中国や南方からの伝わった獅子であろうといわれています。 瑞泉門の左右に城壁が見えますが、角が反り上がった独特な形をしています。 使われているのは琉球石灰岩だそうです。 ※ 本土で見られる城郭の1つ、姫路城の石垣と比較してみてください。 石段を上がり、この瑞泉門を抜けるといよいよ内郭に入ります。 <龍樋> <シーサー> 左の写真が龍樋で、今も水がとうとうと流れています。 右の写真は、瑞泉門の手前に置かれているシーサーで、上の写真では見えない左手に置かれていたものです。 |
供屋(ともや)と北殿(ほくでん)
漏刻門(ろうこくもん)を抜けると左手に供屋、その右上に北殿、右手に広福門(こうふくもん)が見えます。
供屋には、首里城正殿に掛けられていたとされる、旧首里城正殿鍾の複製が置かれています。 左手の柵の中には、日時計の「日影台(にちえいだい)」があり、その対面に広福門があります。 日影台は、1739年から使われ始めたといわれ、1879年の廃藩置県まで王国の時を刻み続けていました。 左端に見えている柵の中には、日時計の「日影台」があります。 左手の小さな建屋が供屋で、上の方に見えている大きな建屋が北殿になります。 ここの石垣の上は見晴らしが良く、浦添市の市街地まで良く見えます。 左の写真は、帰りに通る久慶門(きゅうけいもん)と左端が歓会門(かんかいもん)になります。 右の写真は、左の写真の右の方を撮ったもので、赤屋根の建物は沖縄県立芸術大学です。 |
広福門(こうふくもん)
広福門は、建物に門の機能を持たせた建物付帯型門(たてものふたいがたもん)で、特徴的な城門形式です。
門の外壁上部にある扁額には「廣福」とあり、「福を行き渡らせる」ことを意味しています。 かつて、広福門の西側に神社仏閣を管理し、宗廟祭典を司る寺社座(じしゃざ)があり、 東側には、士族の戸籍や財産をめぐる争い事などを調停した大与座(おおくみざ)がありました。 明治の末、第一尋常小学校の建設のために取り壊されましたが、1992年(平成4年)に復元されました。 ただし、その内部構造に関しては未だに不明で、現在は、西側を御手洗、東側を券売所として使用しています。 これが広福門(こうふくもん)で、横幅がある事から長御門(ながうじょう)とも呼ばれています。 この内側が下之御庭(しちゃぬうなー)になります。 |
奉神門(ほうしんもん)
下之御庭の正面にデンと構えているのが、奉神門で、その内側が御庭(うなー)になります。
神を奉じる(敬う)という意味を持っている門で、1562年に石造欄干完成という記録があります。 現在の奉神門は、1992年(平成4年)に外観のみ復元されたものです。 門に向かって右側に城内での儀式を行なう君誇(きみほこり)、 左側に薬草や茶・タバコを管理する納殿(なでん)があり、君誇御門(きみほこりうじょう)とも呼ばれていました。 その上には「奉神」の文字の扁額が掲げられています。 3つの入口があり、中央の門は国王や中国からの冊封使だけが通れる門でした。 この奉神門の前で、毎日、朝に行われているのが御開門(うけーじょー)という開門の儀式です。 <奉神門(ほうしんもん)と御開門(うけーじょー)の儀式> 何とか時間前に奉神門に到着。 門の正面には、左右に門番が立ち、琉球王朝時代の役人に扮した方が中央に立っています。 ここで、御開門が行われるのを待ちます。 時間になると、やおら銅鑼(どら)をドン、ドン、ドドドドド、ドーンと打ち鳴らします。 そして、打ち終わると「御開門(うけーじょー)」の発声で開門です。 |
正殿(せいでん)
正殿は、木造の三階建で、一階は下庫理(しちゃぐい)と呼ばれ、主に国王自ら政治や儀式を執り行う場でした。
二階は大庫理(うふぐい)と呼ばれ、国王と親族・女官らが儀式を行う場でした。三階は通気用の屋根裏部屋です。 一階と二階の両方に御差床(うさすか)という玉座が設けられ、これは極めてめずらしいと言われています。 御差床の背後の障子戸の裏に国王専用の階段(おちょくい)があり、これを使って二階から出御したそうです。 御差床の左右にある柱には、龍が描かれ、その周りには雲が描かれています。 二階の御差床は絢爛豪華で、上には清国皇帝から贈られた扁額(焼失し、現在は復元したもの)が飾られています。 また、国王の椅子は、1477年〜1526年まで在位した尚真王の肖像画をもとに再現したものだそうです。 正殿正面には唐玻豊(からはふう)という弓なりにカーブした屋根が使用されています。 これは日本の寺社や城にみられる唐破風(破は縁起が悪いと玻を当て字で使用)と同じものです。 ただ、本来は後ろまで弓なりのカーブが続くのですが、首里城では見えない後は三角屋根になっています。 正面、石段の両脇に龍の彫刻である大龍柱(だいりゅうちゅう)が、奥の方に小龍柱(しょうりゅうちゅう)があります。 なお、屋根の龍の棟飾は、龍頭棟飾(りゅうとうむなかざり)といい、当初は焼き物で作られていたそうです。 1682年の正殿修理の際、平田典通(ひらたてんつう)が五彩の釉薬を全島に探し求め、焼物で作ったと記録されています。 その後修理が繰り返されるうちに、漆喰で作られるようになっていましたが、復元の際、焼物で造られたとのこと。 正殿は、本土で見られる城郭で言えば、天守閣に該当するのでしょうか。 赤く塗られた柱や壁、壁面のカラフルな装飾などは、どちらかといえば日光の東照宮に似ているかもしれません。 屋根の上には龍が乗っていますが、本土の城郭の場合は鯱が乗っていますね。 本土で見られる城郭の1つ、姫路城と比較してみてください。 正面の石階段の両脇に龍の彫刻が立っていますが、これが大龍柱です。 その左右に続く手すりの奥には、もう一対の小龍柱があります。 これ以外にも、左右の柱や唐玻豊(からはふう)の下など、多くの龍が見られます。 これは龍が国王の象徴であったため、装飾として多用されたためです。 <一階の御差床> <二階の御差床> <国王の椅子> 一階と二階の両方に設けられた玉座(須弥壇(しゅみだん)という床よりも高くなった部分)、御差床(うさすか)です。 御差床の背後に見える障子戸の裏に、国王専用の階段(おちょくい)があります。 また、二階の御差床は絢爛豪華で、ここには国王の椅子が置かれていました。 二階の御差床の上には、清国皇帝から贈られた扁額(焼失し、現在は復元したもの)が飾られています。 また、須弥壇の周囲には黒い高欄(こうらん)付いており、黒漆に沈金の技法でテッセン(クレマチス)が描かれています。 御差床の左右にある柱には、龍が描かれ、その周りには雲が描かれています。 国王の椅子の下方にある羽目板(写真では下が切れています)には、ブドウとリスが描かれています。 ブドウやリスは、豊かさや子孫繁栄の象徴と考えられていて、中国から伝わった模様です。 |
書院(しょいん)と鎖之間(すさのま)と庭園
南殿の奥には書院と鎖之間(さすのま)があり、書院には国王が日常の執務を行った御書院(ごしょいん)があります。
鎖之間は王子などの控え所であり、また、諸役の者達と懇談する御鎖之間(おさすのま)と言われる広間があります。 書院と鎖之間の奥には城内唯一の庭園があり、露岩を利用し、松と蘇鉄を使って造園されていたそうです。 その庭園や露岩ですが、戦争や戦後に建てられた建造物によって破壊されてしまいました。 そこで、露岩は琉球石灰岩や緑色片岩を、古絵図などの資料を基に積み上げ、表面を彫って再生したそうです。 <書院と鎖之間の間から見た庭園> <書院 内炉之間から見た庭園> . <鎖之間> 正殿内部の見学のため、南殿から入り、見学ルートの書院の方に進みました。 その書院と鎖之間の間から奥の庭園が見られました。書院の内炉之間からも庭園が見られます。 南国らしい蘇鉄を多用した庭園で、両方の写真で左端に見える松が、「わだかまった松」だそうです。 木々の下に見えているのは再生された露岩です。 右上の写真で、奥に見えているのは鎖之間です。書院も鎖之間も正殿と比べると質素ですね。 |
右掖門(うえきもん)
右掖門は、元は国王やその家族が暮らす「御内原(おうちばら)」への通用門として使用されていたものです。
別名は、寄内御門(よすふぃちうじょう)で、15世紀頃に創建されたと伝えられています。 城郭を櫓で挟んだ部分が通路になっている「櫓門」で、現在は正殿からの帰路となっています。 一通り正殿を見学した後、右掖門(うえきもん)から出て、久慶門(きゅうけいもん)へ向かいました。 右掖門から久慶門へは、ほぼ真っ直ぐな石畳の下り坂でした。 |
久慶門(きゅうけいもん)
久慶門の別名は、ほこり御門(うじょう)で、「喜び誇る」という意味です。
ここは、場外への出口になる女性用の通用門として使われていました。 また、国王が寺院を参詣(さんけい)したり、浦添以北へ行幸(ぎょこう)するとき等にも使用されました。 創建は1477〜1526年といわれ、1983年(昭和58年)に復元されました。 この門の左手には、寒水川樋川(すんがーひーじゃー)と呼ばれる湧水があります。 瑞泉門の龍樋はこの左手にあり、城内に降った雨が地下に浸透し、この辺りに湧水として出ているそうです。 右掖門から出て、久慶門へ降りていく石畳の坂道です。 <久慶門の城内側> <久慶門の城外側> <守礼門へ続く城壁> . 久慶門を出ると、首里城ともお別れです。守礼門を通って、バスに戻りました。 |