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鳥居畑古戦場跡の慰霊碑へ
甲斐大和駅を降りて、最初の目的地である鳥居畑古戦場跡へ向かいます。
国道20号や県道218号を避けて、並行している側道を歩きます。 道路脇などに色付いた果実をたわわに付けた木々などが目を引き、紅葉も見られます。 古戦場跡に近づくと見晴らしの良い所からは、木々が紅葉した山肌が見られ、この先が楽しみです。 鳥居畑古戦場跡は、武田最期の戦場で、武田勝頼の一行五十余人が戦い、破れた所です。 武田勝頼の一行五十余人は、天目山を目指して日川(にっかわ)沿いの崖を落ち延びて行きました。 しかし、敵に先を越され、行てを阻まれた一行は、田野に戻り、鳥井畑に陣を張って最後を待ちました。 織田軍に最後の戦いを挑みましたが破れ、武田勝頼は夫人と嫡子信勝とともに自刃して果てた地だそうです。 ※ 日川渓谷の読みは「ひかわ」ですが、地名の元となった日川(にっかわ)から転じた地名だそうです。 その日川ですが、上記の戦いで多数の死者が出て、3日間川面が血に染まった「三日血川」が由来だとか。 出発して間もなく、紅葉や黄葉が見られるようになり、この先が楽しみになってきました。 <マユミの果実と種子> <ナガイモのムカゴ> <ツルウメモドキの果実と種子> 民家の庭先や道路脇などに、秋を感じさせる色付いた果実などが見られました。 ピンクの果皮が弾けて赤い種子が顔を出したマユミ、黄葉したナガイモの葉とそこに付くムカゴ。 ツルウメモドキには、たわわに付いた黄色い果実に、果皮が弾けて赤い種子が顔を出たものが混じります。 まさに秋を感じさせる色彩で、秋になったな〜〜と思えたときでした。
ここで見られた植物の詳細に関しては、こちらに掲載させていただきました。
鳥居畑古戦場跡に近づくと見晴らしの良い所からは、木々が紅葉した山肌が見られました。 これから訪れる竜門峡に、だんだんと期待が膨らみます。 そして、鳥居畑古戦場跡の慰霊碑に到着。ここで一息入れて、直ぐ近くの景徳院に向かいました。 |
天童山景徳院
景徳院(けいとくいん)の山号は天童山(てんどうざん)で、本尊は釈迦如来です。
曹洞宗の寺院で、地元では田野寺とも呼ばれ、日川渓谷の上流左岸に位置しています。 開基は徳川家康で、武田勝頼と家臣ら殉死者の菩提を弔うために建立したとされます。 開山は拈橋ちょう因(ねんきょうちょういん)で、武田信玄に請われて広厳院の住持になった人物です。 1582年(天正10年)に創建されましたが、完成までに29年の歳月を要したそうです。 創建当時は、七堂伽藍(がらん)の立派なものでしたが、その後の2度の火災で大半が焼失しています。 現存するのは1835年(天保6年)に建立された山門のみで、県指定有形文化財になっています。 また、境内の勝頼の墓は、二百周忌にあたる江戸時代の1775年(安永4年)の造立です。 消失した本堂や庫裡などは1978年(昭和53年)になって再建されています。 <山門> <鐘楼> 景徳院の山門と鐘楼です。山門は景徳院最古の堂宇であり、鐘楼は最新の堂宇ですね。 山門の古びた雰囲気は、往時の雰囲気を今に伝える唯一の堂宇です。 鐘楼が建立されたのはもっとも最近になるようで、そばに「歌碑・武田慕情」や「人形塚」があります。 <参道の紅葉> <本堂と紅葉> 参道で見かけたモミジは、真っ赤に紅葉していて、周りの針葉樹から浮き上がって見えました。 本堂の周りには、紅葉したモミジが何本かあり、撮り方によって雰囲気が変わります。 右は、紅葉が進んでいる最中なのか、黄色から赤へと変化するグラデーションがきれいでした。 <本堂と紅葉> <本堂と紅葉> この場所では、日が当る所と本堂の影の所のコントラストが、印象的でした。 紅葉は、順光より逆光で撮った方が鮮やかになるのですが、上の写真と比べれば良く分かると思います。 <本堂裏の庭園> <山門と紅葉> 本堂の裏手にある庭園です。池の中央に小さな菩薩立像が置かれていて、バックに紅葉が見られるようです。 このときは、少し遅かったようで、落葉してしまっていました(後に落ち葉が見えます)。 右は、山門とドウダンツツジの紅葉です。黄色い花はセイタカアワダチソウで、紫はアメジストセージですね。 秋に紅葉したり、咲きだす花ですが、秋の色合いに満ちた花壇といったところでしょうか。 |
日川渓谷・竜門峡
景徳院の紅葉を一通り見終わったので、景徳院を後にし、今日のメインである竜門峡に向かいました。
県道218号線を20分ほど歩くと、竜門峡の入口に到着です。 ここで橋を渡って、竜門峡の遊歩道に入って行きます。整備されていますが、日川渓谷沿いの山道です。 今までのようには行かず、途中で何度も休憩を取りながら上って行きます。 お腹もすいてきたので、日蔭でゆっくり座れそうなところを探し、昼食にしました。 昼食後、ほどなくすると行程の中ほどになる、3段に落ちる落合三つの滝がありました。 さらに進んでいくと、巨岩が重なった中央に隙間ができた「平戸の石門」がありました。 その先にあるのは、巨岩を割ったようにケヤキが映えている「木賊の石割けやき」です。 岩手県盛岡市にある「石割桜」のケヤキ版ですね。樹が岩を割ったのではなく、割れ目に生えたものだそうです。 この後、渓谷を離れ、県道218号線に出ると竜門峡ともお別れです。入口から90分ほどかかってしまいました。 県道218号線を竜門峡入り口まで歩く途中で見られた紅葉の山肌です。 針葉樹などの緑に、紅葉や黄葉が入り乱れて入り、いかにも手付かずの自然といった風情です。 <竜門峡の入口付近にて> 木々が生い茂っていますが、竜門峡が近づいてくるとその奥に岩壁が見えるようになってきました。 橋の上から見ても、渓流から一気に立ち上がる岩壁に木々が生えて、川底まで陽が届いていません。 日川渓谷には所々で沢が合流していて、その切れ間から遠くの山並みや沢筋が見えました。 そして、紅葉や黄葉がそこここを飾っていて、見ていて飽きません。 <落合三つの滝> 竜門峡の中ほどで支流が合流していますが、その支流の方に「落合三つの滝」があります。 別名、3段の滝とも呼ばれている通り、3つの滝が連なって流れ落ちています。 下段は、アップで撮ったもので、左側が上部の2段分の滝で、右側が最後の3段目の滝です。 落合三つの滝を過ぎた辺りから、竜門峡も傾斜がきつくなり、流れも細く激しくなってきました。 谷も浅くなってきているのでしょう。陽が渓流にも良く当たるようになってきました。 <平戸の石門> 2つの大きな岩の間に、もう1個の大きな岩が挟まり、岩の隙間に人一人が通れる隙間が出来ています。 右の写真を見れば、どの程度の隙間か想像が付くと思いますが、ここを通って先に進みます。 <木賊(とくさ)の石割けやき> さらに進むと、大きな岩が割れ、その間に根を張ったケヤキが現れます。「木賊の石割けやき」です。 なお、木賊というのはシダ植物の名前ですが、この辺りの地名「大和町木賊」でもあります。 それにしても見事にすっぱりと割れたもので、何かで切ったようにまっ直ぐに割れています。 斜めに割れたとき、下の地盤が弱くて上部が開いたものと思いますが、倒れるほど弱くはなかったようです。 地盤の強度が高いと上部が開くことはないし、弱いと倒れてしまうので、ちょうど良い強度だったようですね。 ケヤキは、大きい方の岩の角を支点にして上部を支え、根で上部を引っ張ってバランスをとっているようです。 渓谷を離れ、県道218号線に出て竜門峡を後にし、天目山栖雲寺に向かいます。 |
天目山栖雲寺
栖雲寺(せいうんじ)の山号は天目山(てんもくさん)で、臨済宗建長寺派の寺院です。
開基は甲斐国主の武田信満公で、開山は業海本浄(ごっかいほんじょう)、本尊は釈迦如来です。 1348年(貞和4年)の創建で、武田家の菩提寺として大いに繁栄しました。 標高1050mに位置し、裏山の斜面に業海和尚が自然の岩を活かして築いた庭園があります。 武田勝頼の死後、兵火で堂宇を消失しましたが、徳川家康の寺領寄付で旧観を取り戻しました。 重要文化財の木造普応国師坐像、県文化財の本尊釈迦如来像や銅鐘を有し、庭園は県の名勝となっています。 一般的な禅寺の庭園とは異なり、多くの自然の巨岩を活かした豪快な石庭で、1.413haの広さがあります。 創建当時、修行僧達は石の上や樹の下で坐禅を組み、業海が上段の坐禅石から弟子たちの坐禅を検単したそうです。 庭園の中には、地蔵菩薩と文殊菩薩の磨崖仏があり、いろいろな名前の付いた岩石があります。 兵庫県青垣町にある瑞岩山高源寺を西天目と称するに対して、天目山栖雲寺は東天目と呼ばれています。 蕎麦切り発祥の地とされるが、他にも中山道本山宿、筑前国の萬松山承天寺とする説もあり、確証はない。 県道218号線に出て天目山栖雲寺に向か途中で見られた景色です。 紅葉した山々やススキの群落がみられ、秋を強く感じました。 天目山栖雲寺に着いたとき、最初に目についたのが黄葉したイチョウの木でした。 鮮やかな黄色に色付き、周りには他に色付いたものがなかったので、一際目を引きました。 栖雲寺の裏にある石庭の方に回ったとき、鮮やかに色付いた木々が目に飛び込んできました。 ごらんの通り、赤、黄、緑と、3色の木々が織りなす景色は、見ていても飽きることがありません。 この木々の下に巨岩を配した庭園があるのですが、木の方に目が行ってしまって、写真はありません。 栖雲寺を後にして、帰りの列車に間に合うよう甲斐大和駅に引き返します。 帰りは、舗装された県道218号から国道20号を通り、下りでもあったので、90分ほどで着きました。 その途中でも、上記のように山々の紅葉などを見ながらでしたので、足取りも軽かったです。 |