巾着田のヒガンバナ
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巾着田のヒガンバナ
臨時の駐車場は河原です。車を降りると、上の道に上がりあいあい橋に向かいます。
あいあい橋は、1996年(平成8年)に完成した橋長91.2mの日本一の木製トラス橋です。 上から林内に咲くヒガンバナやそれを撮っている人々などを横目に見ながら渡ります。 渡り切ると川沿いの林の中一面に咲くヒガンバナが待っていました。 ここからは川沿いにヒガンバナを見ながら、下流エリアから上流エリアへと歩いて行きます。 上流エリアで折り返した後、巾着田の内側にはコスモス畑やソバ畑があり、そちらを歩いてきました。 臨時駐車場から上の道に上る際、あいあい橋と巾着田のヒガンバナが見えてきました。 道に上がると、高麗川越しに赤い絨毯を敷いたようにヒガンバナが一面に咲いているのが見えます。 あいあい橋の上からは、下流エリアの端だと思うのですが、多くの人がカメラを構えていました。 あいあい橋を下りて、下から見ると橋を支えるトラス構造が良く分かります。 木材を金属のパーツで連結して強度を保っているようで、うまい組み合わせですね。 木製の橋では、錦帯橋(アーチ橋)や猿橋(刎橋)が有名ですが、金属パーツの無い時代のものです。 林内にはヒガンバナがこれでもかと咲き誇っており、一面がほぼ赤一色です。 そのような赤いヒガンバナの中に白いヒガンバナが時折混じって咲いていました。 左側の写真のように、林内で樹の洞にヒガンバナが咲いているものを見かけました。 風や鳥などが種を運び、洞に根付いたものは見たことがありますが、これは人工的でしょうか。 日本のヒガンバナは種子が出来ず、人手で球根を植えるしか増やす方法はないとされます。 この巾着田は、上流の増水時などに球根が流され、この巾着田に漂着して根付いたと考えられています。 しかし、この洞の高さまで増水したとなると、巾着田そのものが流失するほどの事態になってしまうでしょう。 台風19号ではかなり増水して、相当な被害が出ているようですが、その比ではないと思います。 右の写真は、木の表面にチャウロコタケが着生しているものです。 チャウロコタケは、枯木や朽木に生えるキノコです。この木は、この部分が枯れているのでしょうか。 左の写真の木のように、その部分が朽ちて洞になるのかもしれませんね。 <コスモス畑> <ソバ畑> 巾着田を取り巻くようにある林の中はヒガンバナが埋め尽くしていましたが、その内側は別世界です。 元々は田んぼであった所なのでしょうか、広い平地をコスモスが埋め尽くしていました。 その一部には、ソバが植えられていて、こちらもソバが花盛りでした。
巾着田を一回りしてきたので、近くにある高麗神社に足を延ばすことにしました。
高麗神社から駐車場に戻る途中で見かけた道路脇のヒガンバナです。この辺りには多いですね。 右の写真は、高麗川の淵に飛び込んで遊んでいた親子です。冷たくて気持ちよさそうでした。 おそらく地元の方なんでしょうね。ヒガンバナの時期はキャンプ禁止ですから。 河原で無料でキャンプができるようで、夏場などは多くのキャンパーで賑わうそうです。 |
高麗神社・高麗家住宅
高麗神社(こまじんじゃ)は埼玉県日高市に鎮座する神社で、旧社格は県社です。
主祭神は、高句麗(こうくり)からの渡来人 高麗王若光(こまのこにきしじゃっこう)です。 その他、猿田彦命(さるたひこのみこと)と武内宿禰命(たけのうちのすくねのみこと)も祀られています。 668年に唐・新羅に滅ぼされ、亡命して日本に居住していた高句麗からの帰化人を、 朝廷が武蔵国高麗郡(日高市の一部、飯能市の一部である高麗郷と上総郷)に移住させたのが始まりです。 703年には、高麗若光が朝廷から王姓が下賜されたと伝えられており、この地に移住したと考えられています。 高麗大宮大明神、大宮大明神、白髭大明神と称されていた社号は、明治以降は高麗神社と改められました。 境内隣接地には江戸時代に建てられた高麗家住宅があり、国指定重要文化財となっています。 高麗神社の境内にあり、神職を務めた高麗家の住居として、慶長年間に建造されたものです。 東日本の民家の中では古い形を遺している極めて重要な住居として、1976年(昭和51年)に指定を受けました。 <将軍標(しょうぐんひょう)> <ニノ鳥居(にのとりい)> 将軍標とは、朝鮮半島にある風習で、村や寺院の入口に立ち、魔除けや道標の役割を荷なっています。 この標柱は「チャンスン・長丞」と言われ、日本の道祖伸ににた習俗となっています。 在日本大韓民国民団から1992年に木製の将軍標の寄贈を受け、設置されました。 それが腐植、破損したことで、2005年に花崗岩製のものが再寄贈されたものです。 二ノ鳥居には「高麗神社」の扁額が掛けられており、第59代宮司 高麗家当主 高麗澄雄の書です。 <高麗神社 御神門(ごしんもん)> この御神門の奥に御本殿があり、右隣に参集殿があります。 扁額には明治33年に参拝した朝鮮王朝の貴族 趙重応の筆による「高句麗神社」と記されています。 御祭神の故国「高句麗」と後に興った「高麗」を区別するため、そのまま掲げられています。 <国指定重要文化財 高麗家住宅(こまけじゅうたく)> 高麗神社の奥に国指定重要文化財 高麗家住宅が建っています。 茅葺きの入母屋造りで、東日本に残る民家の中では古い形を遺しています。 この住宅脇には樹齢400年といわれるシダレザクラがあり、春には多くの人が訪れます。 上段の写真で、左上から伸びている枝が、このシダレザクラです。 <おくの間> <おもてざしき> <土間の天井> <かっての天井> 「おく」の間には「とこ」の間(左側)があり、10畳の畳敷きで、手前に板の間があります。 隣りの「おもてざしき」は21畳の板敷きで、その上に上敷が敷いてありました。 「おもてざしき」の右手には炉(右手の上敷きの色の異なる部分)あり、奥に見える部屋が「かって」です。 「おく」の間は天井が張られていますが、その他の部屋は屋根裏と途中から竹を並べた天井?になります。 おそらく、「おく」の間は、板張りの天井との二重になっているものと思われます。 |
巾着田・高麗神社で見かけた野草・昆虫
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