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春の三溪園 桜の頃



三溪園の桜が見ごろを迎えたので、桜の咲く園内を満喫してきました。
三溪園は、製糸・生糸貿易で財をなした横浜の実業家「原三溪」が作り上げた日本庭園です。
その広さは175,000uあり、京都や鎌倉などから移築された17棟の古建築が配されています。
日本庭園やこれらの古建築と桜などが織りなす春の三溪園の眺望をお楽しみください。

春の三溪園 桜の頃 インデックス


大池

正門を入って直ぐの所にある大きな池です。
池には、小さな島があり、涵花亭が建てられています。その島には観心橋がかけられています。
この時期、池には潜水ガモの仲間であるキンクロハジロがたくさんいます。
この大池を右回りに回りながら写真を撮ったのが下記です。

※ この大池で見られた野鳥や園内で見られた野草についてはこちらをご覧ください。


正門を入って直ぐの所から見た大池です。
左手に大きなソメイヨシノの樹があり、池にキンクロハジロがたくさんの泳いでいました。


島に建つ涵花亭です。見事な松の樹がたくさん植えられています。
桜の樹もありますが、まだ、松に比べると迫力不足です。


大池越しに見た鶴翔閣です。
手前に見えているのは藤棚ですが、花が咲くのはまだまだ先です。


島の方から見た三溪園茶寮前の池のほとりです。
多くの方が、ここでカモに餌を与えるので、多くのキンクロハジロが集まっています。


対岸に渡って、正門方向を撮ったものです。
右手に見えているのは島の松で、その奥の桜は最初の写真の桜を逆方向から見たものです。


さらに池のほとりを進むと、上の写真で右手に見えていた桜を正面から見ることができます。


ほぼ一周して、正門近くまで戻ってきました。この辺りからは池越しに、旧燈明寺三重塔を望めます。
左手に島に建つ涵花亭が、その右手奥には三溪園茶寮前の池のほとりが見えています。



ほぼ、出発点に戻ってきました。八つ橋手前の藤棚の所から見た景色です。
左手の桜、右奥に旧燈明寺三重塔が見えています。池に浮かぶ小舟が良い感じです。
これで、空がきれいに晴れていると申し分ないのですが、あいにくの曇天です。

三溪園 内苑

大正11(1922)年に完成したのが内苑で、大正3(1914)年に完成した外苑から8年遅れの完成です。
外苑は明治39年に一般公開されましたが、内苑は私庭とされていました。
戦後、原家から横浜市に譲渡・寄贈されたの機に、復旧工事が行われ、内苑も一般公開されました。
内苑には、多くの古建築があり、外苑とは趣の異なる日本庭園となっています。

 
内苑に架かる橋、亭しゃ(ていしゃ)。平成25年8月〜9月に復元修理がおこなわれました。
右は、亭しゃ越しに見える三重塔です。

 
1649年(慶安2年)建築の臨春閣【重要文化財】で、大正6(1917)年に移築されたものです。
桃山時代に豊臣秀吉が建てた聚楽第の遺構と伝えられていましたが、
現在では和歌山県岩出市にあった紀州徳川家の別荘 巌出御殿(いわでごてん)ではないかと考えられているそうです。
三屋からなる数寄屋風書院の名品とされ、欄間に特徴があるそうですが、普段は公開されていません。


1651年(慶安4年)建築の天授院【重要文化財】で、大正5(1916)年に移築されたものです。
建長寺の近くにあった心平寺の地蔵堂で、建築様式は禅宗様を主体としています。
この辺りにはもみじが多く植えられていて、秋の紅葉の頃には見応えがありそうです。
写真は、天授院の前に枝を垂らしているもみじが、若葉を展開し始めた所を撮ったものです。

 
1623年(元和9年)建築の聴秋閣【重要文化財】で、大正11(1922)年に移築されたものです。
徳川家光が二条城内に建て、後に春日局が賜ったと伝わる、書院造の建物です。
窓の形が特徴的な2階は、2畳ほど小さな座敷になっているそうです。
右の写真は、建屋の裏手で、小川を配した庭になっています。

三溪園 外苑

明治39年に一般公開されましたが、完成したのは大正3(1914)年になってからです。
大池をはじめとしたいくつかの池と旧燈明寺三重塔をはじめとした古建築が配された日本庭園です。



 
1457年(康正3年)建築の旧燈明寺三重塔【重要文化財】で、大正3(1914)年に移築されたものです。
木津川市の燈明寺(廃寺)にあったもので、江戸時代に宗派が変わった際、東明寺から燈明寺に改名されたそうです。
園内のほぼ全域から見ることができ、三溪園を代表する建築物です。
現在、関東地方にある木造の塔では、最古の建築物になるそうです。


江戸時代 寛永11(1634)年建築の旧東慶寺仏殿【重要文化財】で、明治40(1907)年に移築されたものです。
縁切り寺の名で知られる鎌倉の東慶寺にあった禅宗様の仏堂です。
この辺りももみじが多いので、紅葉の頃には見応えがありそうです。


宝暦年間(1750年頃)に建てられた旧矢箆原家住宅【重要文化財】で、昭和35(1960)年に移築されました。
白川郷にあった茅葺屋根の合掌造りの民家です。ダム建設のため、三溪園に寄贈されました。
飛騨三長者のひとりと言われた矢箆原家の家だけあって、現存する合掌造りの民家としては最大級とのこと。
屋根の妻側に、寺社などに見られる火灯窓(かとうまど)が設けられていました。

 
横笛庵は、奈良法華寺からの移築との話もあるようですが、詳細は不明なようです。
草庵風の茶亭で、今はなくなっていますが、横笛の像が置かれていたのが名前の由来とのこと。
古びた建屋に鮮やかなミツバツツジの花がアクセントを添えていました。


三溪園内の食事処です。原三溪が考案したという「三溪そば」が名物です。
ここで、ちょっと遅めの昼食をいただきました。

 
鶴翔閣(旧原家住宅)【横浜市指定有形文化財】は、明治35(1902)年三溪が建てたものです。
広さは290坪に及び、その建屋の形が鶴が飛翔している姿に似ているのが名前の由来とか。
その鶴翔閣を睡蓮池越しに撮ったものです。
桃のピンクの花とユキヤナギの白い花が池の水面に写り込んでいます。

 
睡蓮池と道路を挟んで藤棚があるのですが、その藤の洞にタチツボスミレが咲いていました。
タチツボスミレの花は淡紫色で可憐な花ですが、雑草の力強さを感じますね。

上海横浜友好園

三溪園の南門を出た所に上海横浜友好園があります。
上海横浜友好園は、横浜市が上海市に寄贈した横浜上海友好館のお返しとして上海市から提案、整備されたものです。
中国江南様式による庭園で、玉蘭庁は上海市の木ハクモクレン(漢名:玉蘭)に因んだ名前です。
池の中の屋根の反り返った明代の風情あふれる建物が湖心亭で、上海の湖心亭に因んでいます。
現在は、建物が老朽化して危険なため、立ち入れないようです。

 
    玉蘭庁                 湖心亭

三溪園内から池越しに見た玉蘭庁と湖心亭です。
日本庭園の先に中国風の建物が見えるというのは、いささか違和感がありますね。
ちなみに、その後ろに見えているのは首都高湾岸線の道路標識です。










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