善光寺・志賀高原
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善光寺(2002/5/5)
善光寺は、長野県長野市元善町にある無宗派の単立仏教寺院です。
山号は定額山(じょうがくさん)で、本尊は一光三尊阿弥陀如来です。 開基は皇極天皇(勅願)で、644年(皇極天皇3年)に創建されました。 山内にある天台宗の大勧進と25院、浄土宗の大本願と14坊によって護持、運営されています。 大勧進の住職は「貫主(かんす)」と呼ばれ、天台宗の名刹から推挙された僧侶が勤めています。 大本願は、大寺院としては珍しい尼寺となっています。 住職は「善光寺上人(しょうにん)」と呼ばれ、代々公家出身者から住職を迎えています。 なお、古より「四門四額(しもんしがく)」と称して、 東門を「定額山善光寺(じょうがくさんぜんこうじ)」、 南門を「南命山無量寿寺(なんみょうさんむりょうじゅじ)」、 北門を「北空山雲上寺(ほくくうさんうんじょうじ)」、 西門を「不捨山浄土寺(ふしゃさんじょうどじ)」と称しています。 <花まつり> 善光寺に付くと、ちょうど花まつりが行われている所でした。 子供の頃、毎年、花まつりが行われていた記憶はあるのですが、最近は見たことがありません。 時期に関しては、中国歴の4月8日とされているようですが、根拠は曖昧で明確ではないようです。 1つは、インド歴の2月が中国歴の4月〜5月に相当するため、翻訳された結果とされています。 正月などの伝統行事同様、日本の日付慣行は他の東アジア圏などとは異なっていて、 日本ではグレゴリオ暦の4月8日や、月遅れの5月8日に行われているようです。 ということで、この花まつりは、月遅れで、連休に合わせて開催されていたものと思われます。 もちろん、「誕生仏」に甘茶をかけて、拝んできました。 ちなみに、手前に白い顔が見えていますが、これは白い象です。 お釈迦様の生母である摩耶夫人がお釈迦様を妊娠した時、 6本の牙を持つ白い象が体内に入る夢を見たという逸話に基づいているそうです。 それと、甘茶に関してですが、アマチャの葉を煎じたもので、黄褐色で強い甘みがあります。 <妻戸> <びんずる尊者>
善光寺の本堂は、創建以来何度も焼失しており、そのたびに信徒によって復興されてきました。
現在の本堂は、1707年(宝永4年)の再建で、江戸時代中期を代表する仏教建築です。 間口24m、奥行54m、高さ29mという国内有数の木造建築で、総檜皮葺きの撞木造りです。 「撞木造り」とは、T字型の棟の形が鐘を叩く撞木に似ていることに由来します。
さて、本堂の中に入ると、すごい人出で、ごった返していました。
入って左手の一段高くなった舞台、そこに太鼓が置かれていますが、これが妻戸台です。 その右手にあるのが、親鸞聖人お花松と呼ばれる松です。 親鸞聖人が善光寺に逗留されたおり、善光寺本尊に松の木を奉納されたことに由来するそうです。 その右手に安置されている像が、びんずる尊者の像で、俗に「撫仏」といわれています。 お釈迦様の弟子、十六羅漢の一人で、神通力が大変強いとされています。 そのため、病人が自らの患部と同じ所を触れ、その神通力にあやかって病気が治るといわれています。 <日本忠霊殿・善光寺史料館> この後、本堂を出ると、左手に三重塔のようなものが見えたので行ってみました。 戊辰(ぼしん)戦争から第二次世界大戦に至るまでに亡くなった240万余柱の英霊を祀る仏式霊廟です。 それが日本忠霊殿・善光寺史料館でした。1階が「善光寺史料館」になっていました。 この後、境内を一回りして、小布施に向かいました。 小布施では、目的の1つであった北斎館を訪れ、多くの北斎の絵を観賞しました。 複製画を売っていたので、後で額装するつもりで何点か購入してきました。 が、さぼり続けて、いまだに丸まったままになっています。 そして、ここで1泊です。 |
志賀高原(2002/5/6)
向かったのは志賀高原におけるスキーエリアの中央部になる東館山(ひがしたてやま)です。
下高井郡山ノ内町にある標高1994mの山で、山頂付近には東館山高山植物園があります。 この辺りも上信越高原国立公園の一部になります。 小布施を後にし、志賀高原に向かいます。ここで、ゴンドラで山頂へ。 天気が良かったので、ゴンドラからは残雪の残った遠くの山々が良く見えました。 山頂では、さらに見晴らしが良くなり、麓の小布施などの町並みの後に先ほどの山々が見えていました。 山頂付近には結構雪が残っていて、少し離れると残雪の中を歩くことができました。 5月の尾瀬ヶ原で雪に降られたことがあるので驚きはしませんが、久しぶりの雪でした。 |
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