出石・城崎・天橋立を巡る旅
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出石
出石(いずし)は兵庫県豊岡市にある出石城の城下町であった所です。
町割りが碁盤目状に整備された城下町で、丹波の小京都とも呼ばれています。 出石城とその城下町は、外様大名の小出吉英により1604年(慶長9年)に築かれました。 1876年(明治9年)の大火により80%以上の建造物が焼失しましたが、町割はほぼ残りました。 残った武家屋敷や寺社に、明治時代に建てられた寺院や町家が加わり、今に残っています。 市内には、船着場の灯台的な役割であった「おりゅう灯籠」、時計台である辰鼓楼(しんころう)などがあります。 出石城跡の本丸の上には、有子山稲荷神社(ありこやまいなりじんじゃ)があり、朱塗りの鳥居が並んでいます。 ここからは、出石の町並みが見下ろせ、整然と並ぶ町割りの様子を眺められるそうです。 街中に残っている、巨大なおりゅう灯籠です。 出石川舟運の舟付き場で、夜間に遡上してきた舟を着岸しやすくするためのものでした。 名前の「おりゅう」は、鎌倉時代の悲恋物語の主人公にちなんだものとされています。 灯籠のすぐ側にある柳の木を、おりゅうの恋人に見立て、二人が寄り添う様を表しているそうです。 辰鼓楼(しんころう)は、1871年(明治4年)に旧三の丸大手門脇の櫓台に建設されました。 1881年(明治14年)に医師、池口忠恕氏が大時計を寄贈してからは、時計台となっています。 初代の時計は、オランダ製の機械式大時計で、錘の掛け替えが弘道小学校児童の大事な役割だったそうです。 現在は、3代目の時計に変わって、時を刻み続けています。 <下から見上げた東隅櫓> <上から見た東隅櫓> . <稲荷郭から見た出石市内の様子> 出石城は1604年(慶長9年)に小出吉英によって山頂の城を廃して築かれたもので、但馬唯一の城です。 梯郭式の平山城で、有子山の麓に上から稲荷郭、本丸、二の丸、二の丸下の郭、三の丸と段々に築かれました。 東に山里郭を設け、三の丸には内堀を巡らせ、天守閣はありませんが複数の門や隅櫓を設けた要害でした。 最上段の稲荷郭には稲荷神社が祀られており、城郭内にもかかわらず、身分を問わず参拝を許されていたそうです。 現在、1968年(昭和43年)に復元された東隅櫓が、往時を偲ばせてくれています。 <有子山稲荷神社> <出石明治館> . 有子山稲荷神社(ありこやまいなりじんじゃ)は、本丸の上、稲荷郭(稲荷曲輪)にあります。 築城時から現在の場所に鎮座しており、参道には157段の石段と37基の鳥居が並んでいます。 左の写真は、その参道の入口で、ここから石段が始まり、37基の朱色の鳥居が並んでいました。 右の写真は、郡役所として1892年(明治25年)に建造された木造擬洋風建築です。 正面玄関のある木造2階建の背部に平屋建を連結し、玄関ポーチのペディメントやコリント式の柱頭が特徴です。 その正面玄関に明治時代の郡役所としての威厳をうかがい知ることができます。 現在地に移設され、博物館や各種展示会、カルチャーセンターとして活用されています。 |
香住の夕日
香住町(かすみちょう)は、兵庫県城崎郡にあった町ですが、2005年4月1日に合併で消滅しました。
周辺との合併により、美方郡香住町となり、合併後の旧香住町域は、地方自治区の香住区となっています。 ここには鉄道ファンには名の知れた「余部(あまるべ)鉄橋」がありました。現在は、PC橋に架け替えられています。 また、冬には松葉ガニや香住ガニ(ベニズワイガニ)が有名で、温泉に入って、カニを食べるというのは王道ですね。 そんな香住ですが、時間の関係で立ち寄るというか、夕日を見るドライブだけになってしまいました。 香住の海岸沿いを走っていた時のもので、県道11号線沿いの駐車場から撮ったものです。 左の写真は、ゆうなぎの丘近くの駐車場から港を撮ったもので、太陽の光が海に反射しています。 右の写真は、別の駐車場で、15分ほど後に撮ったものですが、海岸線に沿って光が反射しています。 どちらも太陽のある方向を撮っているので、露出が抑えられてローキー調になり、夕方の雰囲気になりました。 ただ、まだ暗い時間帯ではないので、太陽を写野から外すと普通に写真は撮れます。 左の写真は、上の海岸線を撮った同じ駐車場で、足元にあった柱状節理が良く分かる岩礁を撮ったものです。 多少、岩礁が赤みを帯びてはいますが、昼間に撮る写真と大差ない写りになっています。 右の写真は、豊岡の西の外れ「はさかり岩」の近くで撮ったのですが、太陽は写野の左外にあります。 そのため、ローキー調ではありますが、あまり赤っぽくなっていません。 同じような条件でも、太陽がどの方向にあるかで、写真の雰囲気はずいぶんと変わってしまいますね。 この後、城崎温泉まで行って、一泊しました。 |
丹後半島
丹後半島は、京都府北部の日本海に北東に突き出た半島です。
半島の一部の海岸は、丹後天橋立大江山国定公園(2007年8月3日新設)に含まれています 。 つまり、私が訪れたときには、まだ、若狭湾国定公園に一部が含まれているだけでした。 丹後半島の北端にある経ヶ岬から南側が若狭湾となり、越前海岸の越前岬が東端となります。 丹後半島の南東部付け根辺りに天橋立があり、その他にも丹後松島、伊根の舟屋などが有名です。
翌日、丹後半島をグルっと一周するつもりで、出発しました。今日もよく晴れていました。
出発して間もなく、間人(たいざ)に入った辺りで、きれいな海が見えてきました。 駐車できるところに車を止め、思わず写真を撮ってしまいましたが、透明度が高く、南方の海を思わせるような色です。 下段は、手前を大きく写したものですが、黒っぽい所は海藻で、コバルトグリーンの所は砂地ではないかと思います。 さらに進んで、トンネルを抜けた所に丹後松島展望所があったので、駐車しました。 ここの海も、間人で見たような透明度が高い海で、きれいな色をしています。 浅い所はコバルトグリーンで、深い所がツユクサ色やるり色ですが、深さの違いか海藻によるものかは不明です。 松島のような湾にはなっていませんが、きれいな海に岩礁や小島が点在し、砂浜も見られて、良い景色です。 この後、グルっと周って伊根の方に出ようとしたのですが、この先が工事中で通行止めになっていました。 仕方なく、少し引き返して半島をショートカットし、天橋立に向かいました。 |
天橋立
天橋立(あまのはしだて)は、宮津湾と内海の阿蘇海(あそのうみ)を隔てる全長3.6kmの湾口砂州です。
日本三景の一つで、若狭湾国定公園に含まれていましたが、今は丹後天橋立大江山国定公園の一部となっています。 名称は、一般には「天橋立」ですが、府道の名称は「天の橋立線」と「の」が入ります。 その読みも、「だて」と濁るのが一般的ですが、「たて」と濁らない読み方もあるそうです。 天橋立の北部と南西方向に伸びている部分は「大天橋」や「北砂州」と呼ばれています。 一方、切戸(きれと)を隔てた南部と南東方向に伸びている部分は「小天橋」や「南砂州」と呼ばれています。 また、文殊(もんじゅ)水道を隔てて南側にある部分を「第2小天橋」と言い、この3ヶ所で砂州が構成されています。 これらによって宮津湾と内海の阿蘇海に分断され、切戸と文殊水道(天橋立運河)によって繋がっています。 この切戸には「大天橋」という橋が、文殊水道には廻旋橋になっている「小天橋」という橋が架かっています。 砂州は大天橋と小天橋を合わせて3.2kmほど、第2小天橋を合わせると3.6kmほどで、幅は20〜70mあります。 全体が外洋に面さない湾内の砂州としては日本で唯一のものであり、一帯には自生の松が生えています。 阿蘇海側から見た天橋立ですが、大きすぎて一部しか映っていません。 内海側ではあまり砂州が広くないので、松林がずっと続いているように見えます。 天橋立に行こうと小天橋の所に着いたとき、ちょうど回旋橋が周り始めました。 周り切って、ちょうど直角になった所で、船が通過していきます。 あまり間口が広くないので、操船には気を遣うでしょうね。ちょっとずれると橋げたを削ります。 通過すると橋が元に位置に戻っていきますが、旋回部分に人が乗っていました。 小天橋から大天橋を渡って砂州の部分に入ります。宮津湾側には広い砂浜が広がっています。 この砂浜は、現在、浸食が進んでおり、その防止のために小型の堆砂堤を多数設置し、養浜を行っています。 それが写真の右側に見える、クチバシのように突き出した部分です。それらが複数、弓なりに連なっています。 天橋立の散策を終え、近くの天橋立ビューランドに上ることにしました。 突出部は砂浜に居ては良く分かりませんが、上記のように高い所から見ると良く分かります。 ここには有名な股覗きの台が置かれていて、股覗きする人々がたくさんいました。 この股覗きは「飛龍観」と呼ばれ、龍が天に舞い上がるように見えると言われています。 左は普通に撮ったもので、龍が降臨(手前が頭で奥に向かって細く体が伸びている)するように見えます。 右は、股覗きしながら撮ったものです(カメラを逆さまにして撮ったものではありません)。 両者の違いが分かりますか。わざわざ、そのような撮り方をしたのは、見え方に違いが出ると感じたからです。 見ればわかると思いますが、視点が低くなるので手前が隠れてしまって見えなくなるのです。 以前は見えていたのかもしれませんが、木々は年々育つので、徐々に見えなくなったのでしょう。 これでは龍の頭が見えませんので、昇龍には見えませんね。 一通り、天橋立を堪能したので、敦賀まで海岸沿いに走り、北陸自動車道に乗って帰りました。 |